大阪でも3本の指に入る鈑金工場で経験を積んでいたため「そこの3名がついに独立した!」と、噂を聞きつけ、多くの自動車販売店や修理工場から仕事の依頼を頂き、順調に拡大しました。
創業者の「本村 信義」は、最高の出来栄えを目指して鈑金塗装を行ない、日曜祭日も休み無しで仕事ばかりしていた根っからの鈑金塗装職人です。当時は大阪全体の景気も拡大局面で、自動車の保有台数増加に合わせて順調に経営は拡大していきました。
「モトムラオートボディショップ」の仕事量も順調に拡大、地域のディーラーや修理工場など、多くの自動車販売店から修理相談依頼を頂き、仕事がこなしきれなくなったころ、現社長「本村 亨」22歳の時に、父の背中を追ってモトムラ鈑金に入社、鈑金職人として父の手ほどきを受けながら、鈑金工場の経営も勉強、ますます地域から求められる鈑金工場へ変革していきます。
「モトムラオートボディショップ」の技術力は当時から有名でした。一方、技術力が他より高いということは、作業に時間がかかり納期もが遅くなりがちでした。
頑固な鈑金職人だから故に、仕上がりに手を抜くことはありません。そのぶん納期に時間がかかる傾向だったのです。「モトムラオートボディショップ」は、すべて「元請けさん」からの仕事でした。元請けさんとは、自動車販売店や自動車ディーラーのことですが、一部の元請けさんは、早く適当に修理すれば良いと考える販売店もあり「モトムラ鈑金の仕事は完璧だが、融通がきかない」などと、陰口を叩かれることもあったのです。
鈑金や塗装の技術は折り紙付きで、受けた作業は完璧にこなすが、お客さまからのニーズを汲み取り、相談を聞き、柔軟に対応する姿勢は足りなかったのかもしれません。そんな折、バブル崩壊の時期も重なり、大阪の自動車販売会社も販売台数が激減、鈑金修理は簡易な鈑金修理フランチャイズ「安かろう・程々で」のような風潮となり、取引先の自動車販売店倒産なども重なり、業績は頭打ちとなっていったのです・・・
鈑金修理の業績が頭打ちになると、今まで頑固職人の親父の下で働いていた2代目社長の亨は、改革を打ち出します。すると、生え抜きスタッフと反りが合わずにケンカになることもしばしばでした。当時6人いた鈑金塗装の職人は、1人抜け、2人抜け、「モトムラオートボディショップ」の改革をきっかけに、ベテランの職人も辞めていってしまったのです。
そして残ったのが、今でも「有限会社モトムラ」で働いてくれる4人の生え抜きの職人たち。「技術力が高いだけではダメ。元請けさんの事情や、その先のお客さんの事を考えて、どう直してあげれば良いのか?相談を受けて希望に合った修理をしなければならない。」ということを痛感することになったのでした。
現社長の「本村 亨」が考えた改革とは、自分は現場を離れて元請けさんとの情報共有や顧客フォローに特化することでした。当時の鈑金工場では珍しい、専任の相談窓口スタッフを配置して、鈑金と塗装職人の仕事と、元請けさんやお客さまとの相談を受け付ける、分業制のお店に改革したのです。今までの鈑金塗装会社は、職人自身が仕事を受けていましたので、工程管理や修理相談が甘くなってしまう傾向にありました。モトムラ鈑金ではそこを分業とすることで、確実な作業と進行管理、お客さまのニーズを伺い希望通りに修理すること、それぞれを可能にしたのです。
お客さんや元請けさんのニーズを聞いてまわり、厳格な進行管理を行なうので、モトムラ鈑金は「キレイで早くて対応が素晴らしい」と、多くのディーラーなどから、さらに仕事の依頼を頂くことができるようになりました。そのような多くの努力をしているうち「モトムラ鈑金で働きたい」と鈑金職人見習いなども増え、見込みのある職人を採用しては、現場一筋の現会長が技術を叩き込み、スタッフも増え、多くのスタッフが高度な鈑金塗装技術を習得しています。
城東の今福で創業したモトムラ鈑金ですが、溢れ返る位の入庫量となり、工場移転を決定。今福の50坪の工場から150坪の鈑金工場へ平成18年に移転、今日に至ります。元請けさんの数も大阪近辺の自動車会社数十社に増え、年間800台近い入庫量となりました。さらに大阪府内の大手ディーラーさんからも修理依頼のお声がかかるようになり、国内最高の鈑金クオリティと厳密な納期を求められる大阪トヨタさんとも取引ができるようになり、国内・輸入車自動車メーカーからも修理依頼を受ける鈑金修理工場に成長したのです。
さらに今では、モトムラ鈑金のクオリティと技術力を認められ、自動車保険会社トップの東京海上日動火災保険の指定工場に認定、巷の鈑金工場では簡単には認定されない厳正な基準をクリアした鈑金工場となっています。
そんなある日のこと、私たちの噂を聞きつけて、個人のお客さんが愛車の修理相談にご来店されました。
聞くと、他県の輸入車ディーラーで提示された見積り金額に驚き、相談にお見えになったのです。見積もり担当の下司が輸入車ディーラーさんのお見積書を拝見すると、部品は全て交換でした。
「これでは高い見積もりにならざるをえない」
そこで下司は、その場で塗装職人と鈑金職人を集めて修理内容を相談、お客さまには「交換せずに直せます」と、お見積を提案して納期と出来上がりのクオリティを保証しました。お客さまにも喜んで頂き、その場で修理依頼を頂きました。このお客さまは、今では車検整備や自動車購入の相談も頂くようになっています。
モトムラ鈑金は、創業時は自動車のプロしか相手にしない工場でしたが、噂を聞きつけた個人のお客さまの数も徐々に増え、今では多くの個人のお客さまにもご利用頂いています。これに伴いスタッフも増員、モトムラグループで従業員17名、現在年間1,500台もの鈑金修理を依頼される、大阪有数の鈑金修理工場として毎日忙しくさせて頂いています。
鈑金修理は定価が無く、修理方法や仕上がりに差の出るサービスです。お客さまの中には、格安鈑金で安易な修理をされて後悔したり、他店の修理内容に不信感を持たれている方がたくさんいらっしゃいます。モトムラ鈑金では、そんな鈑金修理で悩んでいる方に、ご満足いただける修理提案をお約束いたします。鈑金塗装専門店に直接クルマを持ち込むと思うと、少し緊張する人もいらっしゃるかもしれません。でもご安心ください。ゴルフ好きで元気な2代目社長の「本村亨」や、経験豊かな受付担当「下司要」や鈑金塗装スタッフが、あなたの愛車のキズ・ヘコミなどの修理相談を承ります。もちろん修理の相談は無料です。「愛車のキズ・ヘコミが幾らで直るのか
?」そんな修理相談を、私たちモトムラ鈑金では喜んでお受けいたします。
昭和54年、父親が大阪市城東区今福で「モトムラオートボディショップ」を創業してから、変わらぬ想い「地域のお客さんに愛される鈑金工場であれ!」をモットーに、多くの自動車会社さまや多くのお客さまから鈑金塗装の修理依頼を頂き、日々忙しくさせて頂いています。
鈑金修理という仕事は、1つとして同じ修理はありません。ディーラーさま経由の修理依頼も、個人のお客さまの修理依頼も、毎回クルマも相手も違い、キズの深さや予算も違います。当然お客さまの要望も100通りあるものです。
そこで、モトムラ鈑金で一番大切にしていることは、真摯な姿勢でお客さんの悩みや不安に耳を傾けること。愛車が傷ついた不安や悲しみ、事故の状況やお怪我の程度、愛車を元通りに直すまでの不安に寄り添うことをお約束いたします。
100%完璧にお客さまの希望通りに出来ないこともあります。たとえば、クルマの安全性に関わることは「安くしてくれ」と言われてもできません。どうしても確実に修理しなければならない箇所は、リユース品や中古部品を活用したり、お客さんと相談しながら1台1台最適な修理方法を模索して、毎回提案しています。
創業当初はすべて自動車会社からの依頼だったモトムラ鈑金も、近年は多くの個人のお客さまにご相談頂けるようになりました。お客さんの不安や不安に寄り添い、まずは親身になって修理相談を受けること。これを全スタッフ徹底しています。
ちょっとしたバンパーの修理や、大きな事故修理まで、いざ「どこに修理に出そうか?」となった場合、とても悩むと思います。モトムラ鈑金では、そんなあなたの修理相談を親身になって行なうことをお約束します。100年続く地域のお客さんに愛される鈑金修理工場を目指して、大阪で1番親身になって修理相談ができる鈑金修理工場を目指します。
2006年1月 :城東区で洗車事業開始。
2010年5月 : 鶴見区に花博店オープン。
2016年12月: 門真市薭島に「くるピカ」花博通り店を移転オープン!
門真市薭島の花博通りに、洗車レーンを 4レーンに増やしてコーティング専用ブースを完備した「くるピカ」花博通り店を新築移転オープンしました!
こだわりの手洗い洗車と究極のボディコーティングをお試しください。感動の手洗い洗車場「くるピカ」は、鈑金修理済のお客さまの依頼で、細部まで手洗いにこだわった洗車と究極のボディコーティングを行なうためにオープンしたお店です。毎月800台の手洗い洗車とボディコーティングを行なっています。モトムラ鈑金で傷や凹みをキレイにしたあとは、感動の手洗い洗車「くるピカ」花博通り店をご利用ください。(鈑金修理後にはサービス券を差し上げます)